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どんぐり倶楽部の糸山先生の雑記帳

絶対学力を育てる[どんぐり倶楽部]の糸山先生が書いている日々の雑感

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2014年07月18日
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昨日、ラーメンを食べに行った帰りに、音声メモを残した。
今日、書きおこしてみる。いつも、こんなことばっかり考えてます。

<Visual Thinking についてのメモ>

一般に、Visual Thninking というと、非常に雑で陳腐な単なる、
まとめ方、整理の仕方の紹介になっていることがほとんどである。
もちろん、どんぐり理論での Visual Thinking とは全く異なる。

<開始>
確かに図形だけで、まぁ、絵図ですネ。
どうして図形でなくて絵図かということも大事なんですけども、
絵図で考えていくことが大事かなんですが、最も、相関関係を捉えやすいですし、
色んな変形アレンジもできますし、様々な比較も可能にしますね。

ただし、人間の文化は、特に、記録やコミュニケーションについての文化は、
文字文化ですので、まあ、文字文化というよりも、言葉の文化ですね。

言葉の文化ですので、

まず、弟1段階として、その言葉が表わそうとしているもの、
伝えたいと思っている絵図を、その言葉が表現したいと思っている形に
まず自力で再現するという力を要するわけですよ。

これがまず大きなウエイトを占めてくるわけです。

で、まぁ、言葉や文字から、絵図を起こせると、その後の処理としては、
まあ、誰でもできるんですね。目が勝手にある程度はやってくれますのでね。
それなのに、この絵図の再現を経ないで、ただ絵図の操作だけを
鍛えることに力を入れる人がいるんですなぁ。
まぁ、簡単ですし、表面的には「スゴイな」というようなことになるので
見栄えがいいんですが、そこだけを鍛えては大きな手落ちになるわけですよ。
というよりも、それだけでは、全く使いものにならない。
ところが、気付かないんだよねぁ。
まぁ、気付かないからアチコチでやっているわけです。

なぜ役に立たないかというと、

人間の文化は、文字文化ですので、意思疎通を図ったり、
デ-タ交換をしたりするときに使う材料は記号なわけです。
本体である理解する対象・考える対象は見えない状態のままで入力されるんですね。
つまり、文字などの記号を自力で視覚イメージに再現できる力がなければ、
どんなに操作する力があったとしても使えないわけです。

麺がないのでは、ラーメンは作れないってことです。

ですから、その大量の1次データである文字(記号)という情報を、
そのデータが表現したがっている根本的な内容である絵図に自力で描き起こすことができなければ、
Visual Thinking の力は使えないということになります。

ここを勘違いする人が多いんですね。

ここを勘違いして、というよりも見ようとせずに、根本的な内容が絵図ならば、
絵図を動かす練習をすればいいと早合点するんですね。
そうすると、図形とか絵を与えて、動かす練習をさせて、思考力養成になるという、
間抜け指導が行われるわけです。
生徒達は、既存の絵図を見て、動かす練習をするんですね。
麺の茹で方の練習をするんですね。

ところが、今与えられている麺は、実は、
本番では自分が最初から作らなくてはならない麺なのに、
その作り方は一切教わらないのですよ。

茹で方なんてのは、簡単なんです。慣れてしまえば大したことはないんです。
何百種類もないんです。
つまり、今することではないんです。直ぐにできるようになることなんです。
現状では、無意味な事なんです。

それでは、粉から麺を作り出すという最も大事な部分がいつまでも、
育たないことになる。製麺は外注出来ないんです。
それでは、文字から絵図に描き起こすという最も大事な部分がいつまでも、
育たないことになる。思考の材料作りは外注出来ないんです。

ココが難しいのに、一切しない。

難しいからしないと言ってもいいでしょう。

なぜならば、その言葉を書いた人が伝えたいと思っていることを、とりこぼすことなく、
読んでいる方のオリジナルで再現するわけですからネ。
ここに力がいるわけですよ。
また、言葉のトリガー理論(http://reonreon.com/trigger.html)さえも知らないと、
「言葉だから、言葉で理解しよう」とか
「大量に読めば分かる」とか
「読んでいるうちに分かる」とかね。

 そんなのウソですよ。

 偶然に何度も読んでいるうちに、頭の中に視覚イメージを少しずつ作って、
その全体像を見ることができたから、分かることができただけのことです。
ですから、最初から理解するとは、視覚イメージを自力で描き起こすことだと教えていれば
誰でもー読即解ができるんです。当たり前のことです。基本です。こんなものは大原則です。

もう1つは、右脳教育とか言ってますけれども、言葉から自力で絵図を導くという最重要部分を捨ててしまって、
言葉が導き出す様々な絵図の中のほんの一部を勝手な形で取り出して、言葉とのリンクを一切想起させずに、
言わば、死んでいる状態の図形だけを与えて、操作練習だけをさせる人がいますが、全くの論外です。
パズル問題等が代表例ですが、息抜きには、いいでしょうが学習にはプラスの要素はありません。
無味乾燥ですし、感情破壊の危険性を孕んでいる事になるわけです。
尚且つ、この中には、lmmもオリジナルはない。
そもそも、パズルやブロックやヒントの絵や最低の線分図などを御膳立てしてもらった状態で
何かを<考える>という状態は、現実にはない。
例えば、たまたま記録に残っている文字がめるとしましょう。
古代遺跡に刻まれていたヒエログリフであったりとかね。
例えば、そういった文字が残っていたとします。それをどうやって絵図化するか。
それが難しいわけですよ。そこに力が必要なわけですよ。そこが工夫のしどころな訳ですよ。
そこを解決するのが学力ですよ。それなのに、そこをすっとばして、最初から絵図がかいてあるのなら、
誰だってできるわけですよ。
つまり、正しい学習には、手順があるわけですよ。
練習にも手順があるわけですよ。
理解するための手順ですね。
もちろん、思考する時にも、表現するときにも手順があるんですよ。

A再現、B理解、C思考、D表現という段階があるとして、Dだけをやるというのは、あり得ないんですよ。
見映えのいいDという表現力養成だけを練習するってのは、異常なことなんですよ。
非常にキケンな勘違いを起こすんです。
猿真似をしているだけなのに表現力がついたとかね。
付いたのはコピーする力であって、そんなものは生まれたての赤ちゃんにだって備ってる。

Dの練習は、A+B+C+D=Dなんですよ。
Cの練習は、A+B+C=Cなんですよ。
Bの練習は、A+B=Bなんですよ。

繋ぐところに難しさがあるのですよ。
ですから、Cを考えるには、A+B+Cを教えてCなんですよ。
これを知らない人は、AもBも無視して、Cだけを真似させる。
それでできたと思ってしまう。

手順を踏まえて、抜かすことなく、丁寧にやっていかなければ異常な学習をすることになるんです。

ところが今は、バラバラ学習しかやっていない。しかも、順番までデタラメだ。これじゃあ、普通の子供は対応できない。

Aだけ、Bだけ、Cだけ、Dだけ、しかも、BCをすべき時期にDだけをポツンと徹底反復して出来るようにしてしまう。
すると、異常な「できる子」が育っ。BもCも知らないので先につながらないし応用もきかない。